【王とサーカス】本当の読み方

『ネパール王族殺害事件』を題材にした理由

国王夫妻を含む9人の王族が皇太子により殺害された。この後皇太子は自殺する。

はじめはこの事件の真相を探求する物語かと思い、もしそうなら面白そうだと思った。まさしくそう思ったその思いこそがこの小説のテーマだったのだ。

“遠い国の話を自分がどう受けとるか”

自分とは関係のないところから導かれる舞台だからこそ意味があったのだ。ネパールとそれほど深い関係ではない日本が

“日本語で日本人に伝えてどうなるのか”

この問いにどう応えるのか、それでも伝えるのはなぜか。

またこの事件は実在するからこそ、読者自身にも直接問われたことでもある。

私はこの本を読み進めながら、この事件を「もっと知りたい」と思った。知った後どうするわけはなく、ただ興味を持った。まさしくこの思いこそがラジェスワル准尉がいう“娯楽”なのだ。そして読み終わった時「考えさせられた…」とも思った。しかしまたしても、考えた後どうするわけでもない自分がいる。つまりそれは私も「太刀洗の後ろにいる、最新情報を待つ人々」の一人であることを突きつけられたのだ。

「この国をサーカスにするつもりはない」

この言葉は読者に放たれた言葉でもあるのだ。

本書は読みながらにして疑似体験をしているのだ。

記者は情報を与え、興味を持つ読み手にまた新たな情報を与え、さらに他にも情報がないのかと求められる。サーカスの催し物のように次々と観客を楽しませていく。記事を書く人間が真実や正義のために書いても、結局のところ、読む人間は安全なところにいて、描かれる内容はサーカスの演目にすぎないということなのだ。

書く側、情報を受け流すようにしている読み手、本書を小説という読み物として読んでいる読者、

この本は誰もが舞台上にあがっていて、それに気付いているかどうかをも問われている。

『ジャーナリスト太刀洗万智』

なぜ太刀洗がこの事件を伝えるのか(何者か)。

ジャーナリストとしての信念の中身は何か。

自分のなりわいについてラジェスワル准尉から問い詰められた時、その場しのぎの言葉しか出てこなかった。

なぜ自分は記者をしているのか。

就職活動をして新聞社に記者として採用されたから…。これまでの5年はただ仕事を信じて取り組んできた。しかし自分の信念の、プロとしての中身は何か。

プロとは「考えるより先に手を足を動かすべき」だと信じてきたが、「考えるよりも先にすべきことがあるという理由で考えていなかったのでは」と問われている。

そしてサガルに撮らされた写真。

密告者と刻まれた軍人の死体の演出。きちんとした裏を取らずに、スクープを手にした興奮と焦りで記事を書いていたらどうなっていたか。太刀洗の記者生命が断たれていただけでなく、歴史に残る一大汚点になったかもしれない。そしてまたこれを機に、世界中から記者が押し寄せこの国を撮る。

「何度も言ってきたじゃないか」

先進国の人間が良かれと思ってしてきたことが、途上国に悲劇をもたらしたこと。この街に子供が多い理由や、絨毯工場が止まった理由など。太刀洗も読者も、確かにはじめから何度も聞いていたのだ。

サーカスにすることが、また新たな別のサーカスを作りだしていたのだ。

この本が伝えたいことはすべて初めから書かれているのに、肝心なことは何も気付かないでいる。雑な読み方をしているのだ。気付かないということが、まさしく娯楽として読んでいたことになる。言葉の切っ先はしっかりと読者にも向けられているのだ。

「どれも当たり前のことじゃないか。あんた知らなかったのか」